2011年3月11日。
あの時、俺は高層ビルの30階あたりで仕事をしていた。
高層階だったため揺れが激しく、地震から2時間たっても船の中のようにゆらゆらビルが動いていてとても怖かったのを覚えている。
会社から帰宅許可は降りたが、当時所属していた上司が独裁的でワーカホリックだったため、自分の所属していた部の人間は変な自主規制を行い帰宅できずにいたが、俺は真っ先に帰ったことを覚えている。
理由は当時付き合っていた彼女の安否確認が取れなかったことと、早く帰らないと帰宅困難になることは明白だったからである。
日があるうちに帰宅ができた俺は家族と犬の無事を目の当たりにしてとてもホッとしたのを覚えている。
そして、夜に彼女と連絡がとれ彼女の職場までバイクで迎えに行った。
道路はカオスだった。
逆走、車が歩道を通行するのは当たり前。
パニックが起こるとマナーが良いと言われる日本人もこうなるんだなと感じた覚えがある。
彼女を無事家まで送り届けた後、ニュースで気仙沼が火の海になっているニュースを見て恐怖した。
後日、他の部署の人間は皆帰宅したにも関わらず、俺の所属していた部署の人間だけやることも無いのに上司が納得するのを待ったため帰宅できなかったと聞いた。
なんとなく、あの日がターニングポイントになった気がする。